カルバンークラインは、1942年、ニューヨークのアッパーブロンクスで食料品店を営む家に生まれる。少年時代から洋服に興味を持ち、スケッチと裁縫の技術を独学で習得。アートスクールを経て、ファッション工科大学に進学。卒業後、コートやスーツのメーカーで6年間働く。闘年に幼なじみの友人、バリーシュワルツとコートを扱う会社を設立。70年代になると、スポーツウェアを中心としたカジュアルウェアやシンプルなテーラードで人気を得る。70年代末、従来の仕事着ではなく、パーティにまではけるようなジーンズ「ディナージーンズ」がアメリカで大ヒット。また、男物のパンツに似たデザインの「女性下着」を発表し、話題になる。93年にアメリカ・ファッションデザイナー協会の最優秀賞をメンズ・レディース両部門で受賞。2部門同時受賞は彼が初めて。94年にはユニセックスな香水「CKone」を発表。
レナウンといえば、三〇年前までは日本を代表するアパレル企業であった。しかしいま、そのおもかげはない。一九九八年の同社売上高は一四三五億円であった。だが二〇〇二年一月期は一一六九億(マイナス四%、損益九三億円)。一一期連続の赤字企業だ。まさにいつ倒産してもおかしくない。一番の原因は、依然として百貨店取引に依存した体質から抜け出ることができないことだろう。驚異的な成長を遂げてきた企業がなぜ、踊り場から脱することができないのか。ここでは三つの要因を示しておこう。(1)トップの不在が指摘される。部長感覚の社長が入れ替り交替し短命であった。ここ数年間で何人の社長が交代しているのか。退路をたつために住友から副社長クラスの人材を導入しても、いつのまにか姿を消している。かつてレナウンといえば、人もうらやむ「楽しい経営」という経営理念をかかげて成長を続けてきた企業だ。マスコミなども当時のレナウンを評して「時代を先取りした経営」ともてはやした。(2)経営理念が消費者志向のマーケティングでなく、自己満足のための理念でしかなかった。このため、大企業物有の「大企業病≒が蔓延してしまったのだ。社員の大企業病は、消費者の変化に敏感に対応でき、機動力のある組織を失わせてしまったといえる。(3)百貨店相手の委託販売制にしがみついてきたため変革ができなかったことも大きい。ワールドやファイブフォックスの経営者たちは、八〇年代後半ごろから変化の兆しを掴んでSPAの業態開発に取り組んでいたのに、依然として百貨店との運命共同体意織から抜け出すことができないのだ。このことはオンワード樫山にもいえる。表面的には平静を保っているが、内心は火山である。一九九七年ごろ「カブルズ」という名のブランドでSPAの分野へ参入したが、翌年には中止している。以来、本格的なSPAの開発はしていない。たしかに赤字企業では新しい分野への参入もむずかしい。結果は株価も二〇〇二年二月現在で五二円。これはアパレル上場企業の中でも低い値だ。
カジュアルという言葉は、もともとラテン語のcasual・lsで、「偶然の、何気ない、思いつき、意図せずに」という意味です。それをアメリカ人が広範に用い、その中のひとつとして、カジュアルウェアという言葉が定着したのです。馬車から鉄道へ移行したとき誕生した、英国の田園服(リゾートウェア)に端を発し、アメリカ先住民族のアウトドア用衣類、アメリカ人の労働着、スポーツウェア、キャンパスウェアなど、軽く動きやすいさまざまな衣類が、カジュアルウェアの因になりました。これらの衣類のアイディアの多くが、第一次、第二次大戦の戦闘服に応用されました。戦後、アメリカがそれらを大量に放出し、また兵隊たちが故郷にもち帰り、平常服として愛用したことが、(現代的)カジュアルウェアの誕生につながります。ただし、当時はカジュアルウェアという言葉は、まだ一般的に用いられませんでした。カジュアルという言葉が、アメリカでしばしば用いられるようになったのは、1950年代です。私の古いアメリカの知人(年齢は70歳。大変お洒落な人で、第二次大戦を経験しています)によれば、カジュアルという言葉をアメリカ人が盛んに使いだしたのは、ジェームズ・ディーンが登場した以降からだといいます。ただジェームズ・ディーンの時代のカジュアルは、まだひとつの思想であり、自由や解放を表し、カジュアルウェアはそのひとつにすぎませんでした。